〔blog〕 ある機関紙に、高松中学校のことが紹介されました。
2022年3月29日 15時30分高松宮邸(仙洞仮御所)や高松中学校内にある『血洗の池』についての記事がある機関紙に掲載されました。学校でも、その取材に協力させていただきました。
高松宮邸 全国の陵墓には墓守をされている多くの方々がおられるが、高輪皇族邸にも想いを込めて管理されている元宮家職員の方々がおられる。高松宮同妃両殿下を今も変わらず慕っておられ、妃殿下との思い出を楽しそうに話してくれたり、我々派出所員にとても親切にしてくださる。皇室ゆかりの地の灯は、想いを持った灯台守のような方々によって守り継がれていることを改めて感じる。 高輪皇族邸の近くには、港区立高松中学校と都営住宅に囲まれるようにひっそりと赤穂浪士大石内蔵助以下十七名の切腹の地がある。この-帯は細川家の屋敷であったが、処分を待つ浪士を預かった細川の殿様は、「切腹した浪士は我が家の守り神であるから、浄める必要はない。そのまま長く保存するように」と言い渡した。つまり、ここには今も御霊が残っている。細川家の守り神は、令和の現在も高輪で晩みを利かせているかもしれない。 明治になると細川邸一帯は海軍病院を経て皇室の御用地となるが、明治天皇の「永く旧形のまま保存せよ」との御意向で切腹の地は守られる。戦後は御用地から外れるが、関係者の想いで整備されて現在も静謐を保ち、討ち入りの日に合わせて一般公開もされている。 また、昭和二十四年に高松宮殿下が校旗をデザインされた高松中学校には、上皇陛下も御幼少の頃に御覧になられた「血洗の池」がある。現在は学校関係者、生徒によって大切に手入れをされてメダ力が元気に泳ぎ回り、高輪皇族邸の豊かな緑、四季折々の草花と共に、鳥と小動物の楽園になっている。戦後、高松宮殿下の御意向で御用地の大部分は地域に開放されたが、その想いは確実に地域の方々に受け継がれている。 荒城の月 江戸時代、高輪は品川の海を望む月の名所であった。夜風に吹かれながら月を見上げると、 大石辞世の句、 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし が頭に浮かぶ。大石は細川邸で月を見ながら詠んだのかもしれない。任務を完遂し、重責から解放されて一人の人間に戻れた安息だけでなく、残された者に悲しみを与えない陽気な辞世の句に、大石の人柄が偲ばれる。 高輪の月は、三百年前と変わらずに美しく輝いていた。
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